当時梅雨前線は西日本に停滞していて,5日に降り始めた雨も8日の午前2時ごろまでに約18mm程度であったが,台風7号が南西諸島の宮古島付近を通過して,東シナ海を北上しはじめ,8日朝から前線の活動が活発になった。8日の夜明け前から雷を伴って強い雨が降り始め,昼過ぎまで続き,呉市では8日6時から12時までに49.6mmの雨が降った。その後も停滞した梅雨前線のため8日午後から夜にかけて断続的な雨が降った。台風7号は,8日9時にはすでに弱い熱帯低気圧となり,9日になるとさらに衰え温帯低気圧となったが,折りから北上してきた梅雨前線に沿って移動し,朝から再び雨が強くなった。低気圧は15時には九州北部に達しているが,このころ呉市では急激に強い雨が降り,16時から17時にかけての雨量は74.7mmにも達した。
呉市は,昭和20年災害時程度の降雨量に対応する復興計画をたてていたため,昭和20年災害に比べ,被害が少なかったが,豪雨の前日の降水量は,昭和20年より多く地盤がゆるんでいたところへ,本格的な豪雨となり,山崩れ,がけ崩れ,河川の決壊,氾濫が全市にわたり,生埋め171名,死者88名の大災害をもたらした。また,広島県全体では死者が159名にも及んだ。
「呉市の42年災害 (昭和50年3月 広島県)」より